幸田露伴

抑醍醐帝頃は後世から云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂点のやうにも見えるが、然し実際は何に原因するかは知らず随分騒がしい事もあり、嶮しい人心の世でもあつたと覚えるのは、史上に盗の多いので気がつく。仏法は盛んであるが、迷信的で、僧侶は貴族側のもので平民側のものでは無かつた。上に貴冑の私曲が多かつたためでもあらうか、下には武士の私威を張ることも多かつた。公卿や嬪媛は詩歌管絃の文明にも酔つてゐたらうが、それらの犠牲となつて人民は可なり苦んでゐたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸々と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客が美女才媛等と、美しい衣を纏ひ美しい詞を使ひ、面白く、貴く、長閑に、優しく、迷信的空想的詩歌的音楽的美術的女性的夢幻的享楽的虚栄的に、イソップ物語の蟋蟀のやうに、いつまでも草は常緑で世は温暖であると信じて、恋物語や節会の噂で日を送つてゐる其の一方には、粗い衣を纏ひ 麤い詞を使ひ、面白くなく、鄙しく、行詰つた、凄じい、これを絵画にして象徴的に現はせば餓鬼の草子の中の生物のやうな、或は小説雑話にして空想的に現はせば、酒呑童子や鬼同丸のやうなものもあつたのであらう。